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前澤均先生インタビュー

自分がいかに音楽を持つか

本インタビューは、 2018年10月27日(土)紀尾井ホール 「サファリオーケストラ第25回定期演奏会 ―前澤均喜寿記念― 」 のプログラム冊子に掲載した記事のノーカット版です

 

―幼少時のご様子はどのようでしたか

親父は典型的な日立のサラリーマン。東京にいたけれど、大空襲があるというので、逗子にあった社宅に引っ越した3日目くらいに、東京中が燃えちゃった。東京は江戸川区小岩、荒川放水路の近くだったのでまさに焼けた辺り。我が家に焼夷弾が落ち、近くにいた人からは「前澤さんちが早く消しとめてくれていれば、あんな火災にならなかった」と言われたくらい。空襲だったからね、そのくらいの爆撃があった。引越しの時は途中でガソリンがなくなって、戸塚でトラックが止まってしまった、そんな時代だった。

 

1歳3か月でポリオ(小児麻痺)になったと聞いた。小学校に入学する時、足が悪いから運動会系は出られないが学芸会系には出られるというので、その時に逗子にいた岩船雅一先生に、母がバイオリンを習わせた。小学校の時は日曜日っていうと、同門の大学生で後に医者になった根本英男さんに「ヒトシちゃん遊びにおいでよ」と誘われ、音楽好きな人の中に入って、室内楽なんかをいたずらしていた。

 

親父がね、「象牙の麻雀牌を持っていたのをお金に換えてバイオリンを買った」といつも言っていた。といっても、SUZUKIバイオリンの子ども用のを買ったんだけどね。親父は一人っ子で、尺八やったり山に行ったりスキーやったり。父方の祖父は、長男なのに家を継がず、千葉の田舎から東京に出てきたとか。その祖父が持っていたという、明治の初期のバイオリンが家にあって、今でもそれだけは飾ってある。

お袋は田舎のふつうの娘さんで、関東大震災の時は青山にいたとか。侯爵だか伯爵だかの家庭にお行儀や作法の見習いで入って、裁縫、料理、掃除を勉強しているうち、旦那様の家を見聞きして、文化的なものへのある種の憧れがあったのではないかな。

 

「歌心」

―音楽への情熱を養った要素や環境は?

バイオリンが好きというよりは、歌が好きだった。とにかく一人でずっと歌を歌っていた。環境的には岩船先生の縁で、音楽好きの奥様や学生さんとかと一緒にいたのが大きい。

兄貴が変わっていて、演劇好き、音楽好き、とにかく本が好き。その影響は確かにあったんじゃないかな。兄貴の中学の同級生の父親に牧定忠さん(NHKヨーロッパ総局長・名古屋屋芸術大学長など歴任)という人がいて、後に音楽本も書いた人だけど、あの時代にレコードを持っていた。うちでも蓄音機だけ買って、借りてきたレコードばっかり聞いていた。小学校の時から「冬の旅」(シューベルト)とかね、だから「歌心」、そういうのが器楽にとってすごく大きい。

終戦後の物のない時代に環境的に恵まれていた。逗子は海軍が多く海軍住宅というのがあってね、軍艦で外国行くとSPレコードを沢山持って帰ってくる。

蒲田練習後の飲み会
蒲田練習後の飲み会

―中学では吹奏楽でホルンを吹かれました

吹奏楽を指導していた東清蔵という人は、軍艦三笠に乗っていたとか。練習の仕方は今と同じだけど、当時は行進曲ばっかりやっていた。軍艦マーチなんて大好きだった。このブラスバンドの同級生から3人、小学校の同級生から1人、藝大に行ってね。2人が作曲、1人はティンパニ。このうち1人は芥川也寸志の奥さんになった江川真澄さん。

中学の時に鎌倉学生音楽コンクールでバイオリンの賞をもらった。それが第1回で、今も続いているコンクール。当時は弾く人が少ないから、ちょっと弾ける男の子が出てきたから入っちゃったけれど、バイオリンにはまだそれほど没頭していなかった。

高校で藝大の兎束龍夫先生について、初めて音階の大切さを知り、重音の練習もし、熱心にやりだした。その頃横須賀交響楽団(医師の根本氏が設立)ができて、顔を出していた。終わったあとに喫茶店に行って、コーヒー飲んで、みんなでわーわーやって、そういうのが楽しかったね。今と同じだよ。

 

―高校では合唱部の指揮も

指揮をしたのはここが初めて。当時、音楽の先生が、洗足学園の高校から大学を作ろうとして文部省に足しげく通っていた。放課後出かける時、「おっ前澤君! これやっといて」と任せていく。それで僕が見よう見まねで一所懸命、合唱パートを指揮してね。スコアを見るようになったのはこの辺から。

 

―藝大にいこうと思ったのはいつですか

中学の同級生の母親が兎束先生と同級生で、先生を紹介してくれた。兎束先生が藝大の先生だったから、藝大にいくことになっちゃった。毎週東京までレッスンに通ってね。音楽で生きていこう、とか、そういう進んだ考えは一切なく、なんとなくバイオリンでいくんだなと、受験するんだな、と。

「音楽的なことは カルテットで得た」

―藝大に入られてからは?

大学時代はひたすらカルテットをやっていた。ずっと同じ4人(瀬戸瑶子・前澤均・兎束俊之・内田勝彦各氏)で取り組んだ。もともと自分以外の3人は藝高(藝大附属音楽学校)卒で仲が良く、大学に入ってカルテットをやろうというので、毎日一人一人、違う人を呼び出しては初見大会をしたらしい。その中僕だけが「合格」した(笑)。要するに、上手下手じゃなくて、合わせる感覚とかをみていたらしい。

音楽的なことはこのカルテットで得たことが一番大きい。瀬戸さんはアメリカから帰ってきて新日フィルのコンサートマスターになったくらい音楽的に優れた人。彼女の下で第二バイオリン弾くと、「こう弾くのよ!」と一所懸命教えてくれた。

 

この頃師事したホルスト先生(ヘンリー・ホルスト氏)が非常に理論的で、指をぽんぽん変えてしっかり押さえる、というのを教わった。デンマークの先生で、フルトヴェングラーの演奏会でコンサートマスターをしていて、シベリウスなんてだいぶ初演した人。ベルリンフィルのコンサートマスターもしていた。

―N響就職まではどのようでしたか

兄貴が僕より先に高校(日比谷高校)で東京に出てきていて、N響の会員になったり俳優座の会員になったり。それもあって僕も大学4年間、N響の定期会員になって、音楽というとN響を聞いていた。レコードなんてあんまりない時代だったから。

学生オケではコンサートマスターもやった。同級生はプロオケのエキストラに行ったりしていたけれど、僕がのんびりとしていたことは確かだ。どこに就職しようとかの発想がまるでなくて、大学4年の12月に友達が「N響受けないか」と言うから「受けようか」と。

カルテットを一緒にやった兎束君は藝大教授の息子で、兎束先生の門下には海野義雄さん(N響)とかそうそうたる人がいる。そういう人が、ゲネプロと本番の間に大学に来てレッスンしてくれたので、顔は知っていた。そのまま流れにのっかってN響に入ってずーっと来た。今のほうがオーディションは大変だと思う。

 

―N響のオーディションでは何を弾かれましたか

ベートーベンのバイオリンコンチェルトの1楽章。自分の好きな曲を持っていって、みんなの前で弾いた。1楽章25分くらい、全部弾かせてくれたよ。

 

―N響時代のご様子はいかがでしたか

N響は完全に「出勤」というかたちで、10時に音出し、15時15分に音切れ。ちょっとでも遅刻して入ると白い目で振り返られる。あの雰囲気はN響だけ。戦前から生放送をしていたでしょう。ピッピッピッポーンでスタジオでパーンと音を出す。皆が1時間前に集まる習慣があるからね。

練習場はそれまで田村町(現:内幸町)の昔のNHKの中にあったけど、僕が入った年から泉岳寺に移った。

 

―名だたる指揮者の様子は?

オーラがすごいっていうのかな。当時サヴァリッシュがいちばん若くて、はつらつとしてやって来た。僕が入ったその年に来たエルネスト・アンセルメは、八十いくつで、毎回楽屋に看護婦さんが担架と詰めていた。

本番まではだいたい3日、多い時で4日。全部本番の指揮者でやり、代わりの指揮者はいない。午前中の練習が良かったら、午後の練習はパアッと解放されるというのも、けっこう多かったよ。サヴァリッシュなんてそういうの上手だったから、お昼が12時15分だけど、「あと10分くれ」と言って延長し、午後の練習がなくなる。

 

例えば一つのシンフォニーのプログラムをやるとすると、1日4時間を3回やって12時間でしょう。アマチュアで12時間より少ない時間で本番をやることがある。それも全員そろってやる練習と、欠席者がいてバラバラにやる練習と、全然効率が違う。そうなると、アマチュアの場合はもっともっと練習してやったほうがいい。

 

「苦手なんて 先にさらえばいいんだよ」

―壁やスランプはありましたか

あるとしたら現代音楽にあたった時。絶対音感がないから。高いところで半音違いのぶつかる音があると、隣の奏者と一緒になってしまったりする。近現代に入って、ブルックナーやマーラーとかでも、そういう音が出てくる。そういう時はピアノの鍵盤を使って、人より1週間くらい先に練習を始める。だから今でも子どもに教える時は「苦手なんて先にさらえばいいんだよ」と言う。

今の絶対音を持ってパラパラ弾ける子を見ると、あのくらい耳と手が動けばもっと面白かったなと思うけど、そういう子はコッチ(胸)がない子が多い。歌心がない。この音、このキーを、パッと出すだけになっちゃう。短調から長調になった響きも、「ああこの音がシャープになっただけだ」としか捉えられないと、かわいそうに感じる。

 

―先生のご指導には温かい眼差しを感じます

僕も鈍かったからね。要するに絶対音感もないし、さらわないと弾けない。怒ったってできるものじゃない。練習方法を、「こうやって一週間さらってきてごらん」と伝えれば、一週間後に弾けるようになる。

 

―ウィーン留学(N響の派遣留学)は結婚してから行かれたそうですね

長男が生まれてから「留学するかい?」と声をかけられた。それより以前に、優秀な人がN響から派遣留学した後に辞めて渡航しちゃう例があり、僕の時から、「絶対帰ってきてくださいよ」と、声をかけだした。声をかけられてから一か月で行くので、ドイツ語なんて何もできない。普通は語学学校に入るところを、僕は、しゃべれるようになったら向こうが楽しくなっちゃうと思って、ウィーンでも一切語学学校に行かなかった。レッスンは片言で何となくわかるからね。今思うと、しゃべれるようにしておけばよかったな!と。

 

カラヤンお気に入りのフルーティスト・ワナウゼック先生に、向こうで一緒だったオダカのチュウさん(指揮者・尾高忠明氏)とウィーン郊外のドライブに連れて行ってもらったりした。ワナウゼック先生は、僕の下宿の目の前に住むフルート留学生がついていた先生。ワナウゼック先生がオダカのチュウさんの母親(ピアニスト尾高節子氏)を良く知っていて、そんな縁でオダカのチュウさんと一緒にいた。

ワナウゼック先生が古典好きでね、バイオリンとフルート、チェンバロのトリオソナタの楽譜を沢山持ってくるので、毎週のように楽しんだ。

「木枯らしの中のシューベルト モーツァルトの春への憧れ」

―印象に残っている風景はありますか

ウィーンの街を離れて郊外に行くと、そこいら中がシューベルトだったりする。森というか小川というか。ウェーバーだとかワーグナーに出てくる森じゃなくて、さらりとした明るさ。

マティアス・ケラー(有名レストラン)で弾くチゴイナーバンドも聞きにいった。シュランメル音楽(オーストリアの民族音楽)、すごかったな、あれは。あれがシューベルトやマーラーの原点にあるのかな、と思った。ポルタメントの付け方とかね。

 

今の人は当たり前に海外旅行に行くけれど、生活すると、ふとレッスンの帰りの寒い木枯らしの中に、シューベルトの世界があるとか、感じることが多い。1週間くらい講習会で来ました、だと講習会ばかりに集中しちゃうけど、そうじゃないところに何かある。ただ裏町を歩いたり。それと春夏秋冬の季節感。突然春が来た時のモーツァルトの春への憧れとか。先生に教えられることではなく、自分で感じることが多い。

 

―留学期間1年は短かったですか

1年でも2年3年4年でも、感じ方は同じだと思う。近衛秀麿とか、團伊玖磨、三善晃とか、1年か2年で膨大に上手に吸収して上手に生かしている。

僕の場合は、ウィーンの先生が全部、報告をN響の有馬大五郎さん(副理事長)にしていた。僕が羽田に戻ってきた時、ゲートの向こうに有馬さんが出迎えて、一言「君いい勉強をしてきたね」と言って去った。有馬さんは、サヴァリッシュやシュタインを連れてこられた方。

―戻ってきてシュトス弦楽四重奏団を主宰なさった

オーケストラのほかカルテットをやりたいという思いがあった。在住の逗子・鎌倉でやればお客さんが地元で聞けるからと、鎌倉でN響メンバーで組んで始めたのが好評で、シュトス弦楽四重奏団として春秋25年・ちょうど50回やって、定年の年に終わった。

 

―その後、湘南アルス室内合奏団も始められました

イ・ムジチ楽団(イタリアの室内楽団)などちょうど弦楽合奏が盛んな頃でね。室内合奏団をつくって、年に1回は演奏会をやっていたかな。「これでオペラやろう!」なんてね。モーツァルト12歳の時のオペラ『バスティアンとバスティエンヌ』を、ステージの半分に合奏団、半分に歌い手、地元の声楽家と入れて、すごく面白かったよ。指揮者なしでね。

 

―湘南ユースオーケストラはどのように結成?

学校の先生と雑談する中で「若い人たちに偉大な作曲家のオーケストラ作品を演奏させたい」と夢を語ったら、じゃあやりましょうか、と引き受けてくれた。最初はなかなか人が集まらず、自分のところの生徒、吉原君・徳岡君(サファリ)とかとやった。今でもなかなか、コンクールだけ受けているような子はジュニアオーケストラなんて来ないでしょう? 

平成元年に始めて30年。この間に音楽学校に行きたくなっちゃった子どもが何人かいるわけで。罪つくりというか。はっはっは! ファゴット早川君(サファリ)とかね。

「具象の音符だけ弾いては つまらない」

―いろいろ手がけて生活はお忙しかったのでは

当時N響はわりと日曜日の公演を少なくしていたので、ユースオケは日曜に練習ができた。カルテットはN響メンバーとやっていたので、15時15分にオケの練習が終わったあとN響練習場の2階で16時~20時くらいに取り組んだ。皆が同じところにいたから練習しやすかったね。

 

指揮の勉強は電車の中でできる。スコアを見て、自分の中で「こう…」と音をつくる。例えばサファリで練習する時、自分の中にはN響の演奏の響きがあるから、違っていると「ここアクセントが足りない」とか。プロの指揮者でやるにはそれ以上の勉強が要るけど、僕は好きでやっていたからね。

N響と共演した指揮者がぜんぶ先生。藝大で1回だけ指揮の山田和男(一雄)先生の授業を受けたけれど、結局N響で見ていると、指揮法なんて何もない。自分がいかに音楽を持つか。絵と同じで、どういう音楽を描きたいか。

 

作曲家が抽象的に思ったものを、楽譜という具象に置き換える。具象化された楽譜というものを、我々は逆に抽象に置き換える、その作業。だから、具象の音符だけ弾いている人は、つまんなくなってしまう。

 

―アマチュアを指揮する中での工夫などは?

自分の言葉がうまく反応した時は、すごくいいね。この言葉を使ったらパッと良くなった、というのはよくある。

 

―今回のブラームス『バイオリンとチェロの為の二重協奏曲』第3楽章の練習で「線香花火みたいに」という言葉が印象的でした

そう、そういう言葉。ところが、子どもたちとやると、言葉を知らなかったりする。「もっと甘い音出して!」と言ったら「甘い物きらいです」と(笑)。そういう子は、文学で「甘い言葉でささやく」とあっても、だってお母さんが甘い物はいけませんとか、ラブロマンスが通じないと思う。光でもそう。例えばゲーテなんかの、イタリアに入った時の明るいバァーッとした光と、ドイツの光と違う。鈍感だと、「イタリア的に音出してよ!」と言っても「イタリアの音ってなんだ」となっちゃう。そういうものがすごく大切。

 

―ご自宅レッスン部屋には美術本が沢山ありました

大学の頃、演奏方法をどうしたらいいのかと思い、小さな美術全集を買った。マチスとかピカソとか、色々な画家の違った絵がある、そんなのを読んで、そこからヒントになるものがあるかな、と。作曲家でもラベルとドビュッシーで色が違ったりする。

「悲しみや苦しみ、開放感 そういうことができて人生になる」

―文学なり絵なりで感覚を養うとよいでしょうか

自分がすごく苦しくて、泣いても泣けないような立場に実際に置かれるのは嫌なものだけど、文学とか芝居とか音楽を通して、悲しみや苦しみ、開放感を味わえる。そういうことができてきて、人生になる。小さい頃から音楽だけ狭い視野でずっとやってくると、「甘い音ってなんですか」となっちゃう。

レッスンに来る子で、音楽ばかり厳しくやっているのを見ると、あれじゃ音楽学校を卒業した頃にくたびれちゃうと心配になる。音を聞いて自分の感情が反応せず、感動しなくなってしまう。

 

―感動の生まれるところは?

海外旅行で新しいところに行っても、先に映像で見て、「ここ行くんだ」って言うじゃない。行って「映像と同じだ!」と言う。まったく違うところにパッと出た時のあの感動がない。ネットで何でも調べて見てしまう、それが僕は感情的に良くないと思う。感激の度合いは絶対少ないよね。

音楽でも、例えば僕はN響に入って初めて音を出したのがショスタコーヴィチ交響曲第5番だったけれど、聞いたこともないのをいきなり、手書きの楽譜で演奏した。音を出して初めて「こんな音楽だ」と体験する感動があった。春の祭典とかも。

今は音を出す前に知っているでしょう。この間レズニチェクをやった時(昨年のアンコール「ドンナ・ディアナ」序曲)も「誰も知らないだろう」と思ったら、初合わせの前にけっこうみんな聞いてきた。N響の時はワルベルクが「アンコールこれだ!」といきなり言って、えーっこれ!?と。でも何かうきうきするから印象に残る。

 

楽譜から入るのと耳から入るのと、どっちがいいかわからないけどね。まったく新しい発想で譜面を見ていくこともできるといい。

今回の演目について

―今回演奏する3曲へのコメントをお願いします

■リヒャルト・シュトラウス「交響詩ドン・ファン」

これは、N響にサヴァリッシュが最初に来た時、僕が受けた衝撃の一つ。オケというのはこんなに色気があるのか!と感じた。ダイナミックさと甘ーい旋律の、まったりと濃密な時間のつながり。こういうのを振りたいなあと昔から思っていた。何回も弾いているが、サヴァリッシュが一番印象強い。

 

■ブラームス「ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲」(Vn.神代恭子さん、Vc.山梨浩子さん)

湘南ユースオーケストラで山梨さんが、大学を卒業した年にドヴォルザークのチェロ協奏曲をやったことがあり、次にサファリでデビューさせたいと思った。山梨さんは音楽が素直でとてもいい。一方のヴァイオリンは、恭子に尋ねると「この曲は弾いたことない」「やってみる」と。サファリでは2004年にも、ブラームスのヴァイオリン協奏曲を一緒にやっている。

 

■ドヴォルザーク「交響曲第7番」

一昨年にサファリで8番をやり、昨年ユースオケで9番をやったので、その流れで7番を振ってみたいと思った。

 

余談になるけれども、9番新世界は、N響でやってきたイメージと全く違うイメージが僕の中にある。ドヴォルザークの最後のシンフォニーとして見ると、あんまり簡単に弾く曲じゃないんじゃないかな、と思う。2楽章は、徹底的に死という問題を扱う。学校の帰りの放送に流れるような軽い感じではなく、埋葬するときの悲しみがあり、最後は「アーメン」。アーメン終止とは違うけれども、ドヴォルザークの中のアーメンで以って2楽章が終わる。どうもそういう演奏が少ないなあと思って。悲愴(チャイコフスキー交響曲第6番・作曲家最後の交響曲)もそうだね。悲愴はサファリでやって、今DVDで見てもなかなか良かったと思える。

 

ドヴォルザーク7番、この曲を弾いた経験は、N響では2、3回しかない。弦楽器は弾きにくくて、非常に技巧的。それだけドヴォルザークが若いということかもしれない。7番が表すのはチェコ民族の闘争。ヤン・フス(ボヘミアの宗教改革者)の「ターンターンターン、タタタ…」のテーマがあったり(①)、「ン…、パパッ、パーン」という、裏で民衆に呼びかけるテーマが出てきたり(②)。8番とはまったく違う、祖国に向かっての思いが一番あるのがこの7番。

① Dvorak 交響曲No.7より抜粋

 

② Dvorak 交響曲No.7より抜粋

―音楽を習う子の親へメッセージはありますか

親は、一歩下がって見ることができるといい。環境を与えるけど、あまり手を出さない。とにかくいい先生を選ぶこと。親が自分でコンサートに行って、この先生は気品のある演奏家だとか、いろんな要素から自分の感性で選ぶこと。ただし、名演奏家がいい先生とは限らない。名演奏家というのは長嶋茂雄さんと同じで、「カーッと来たらカーッと打つんだよ」となるけれど、それよりは苦労してバッティングやった人がコーチには向いている。ある程度努力してきちんとした水準まで成し得た人が、先生としては上手ではないかな。そういう先生の下で子どもが成長したら、天才的な先生につけるといい。どんなボールでも打てるようになっていけば、天才的な先生はまた違うことを言う、それが大切。

 

―先生の具体的な指導がアマチュアに役立ちます

スタッカートは短く、とだけじゃなくて、アクセントでもあるわけだから、そういうのをやっていくのが絶対必要。

in tempo(インテンポ・正確な拍子で)というのが、即「メトロノーム」になっちゃうのも問題。京都弁のイントネーションが京都の言葉であるように、シューベルトのイントネーションがある、モーツァルトのイントネーションがある。日本人的な感性でわかっているわけだから、たぶん向こうでシューベルトをやってウィーンの人が聞いたらまた違うよ、と言うだろうけどね。

 

―プロを目指す子へ伝えたいことはありますか

自分を大切にするということ。自分の個性というかな、それがうまく伸びてくれればと思う。けれどもそれが受け入れられない実情もある。コンクールなどでは、この審査員でこの演奏は絶対ダメだなとか。

クセが強いとか言うけれども、極端な演奏をするギトリスのような感性は、若い人にもある。そういうのをお客さんも選んでほしいし、音楽評論家も、一番無難な選び方をしないでほしい。

「"情念"という言葉は好きだな」

―アマチュア含めて音楽家へ伝えたいことは

言葉でいうと、情念みたいなもの。“情念”という言葉は好きだな。気品とかね、演奏にあるもの。「上手い」「下手」ではなくてね。

 

―お元気の秘訣はありますか

良く寝ること。

あとは指揮することもあるけれど…、バイオリンを毎日触る、さらうことだね。ありとある室内楽の楽譜を見てさらう。バッハの無伴奏ソナタ・パルティータは一日1曲弾く。6曲あるから、月曜にはソナタ1番、火曜には2番…など決めて、日曜には好きな1曲を選んで弾く。

カザルスが無伴奏チェロ組曲を毎日弾く、というのを聞いたことがあって、真似するようになった。指ならしと認知症予防だね。

 

―今後チャレンジしたいことは

指揮は色々やってみたい。サファリオケでもシューマンとか。元気が続く限りやりたいね。

弾く方では、室内楽をまだまだ楽しみたい。

その二つが大きな夢かな。

2018年9月8日練習前・蒲田にて収録

©サファリオーケストラ

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指揮者:前澤均氏
指揮者:前澤均氏

チャイコフスキー/弦楽セレナーデ2013.4.20 沖縄・南城市シュガーホールにて演奏